無印良品のメイクブラシ

二〇二一年一二月三一日。一年の最後に、メイクブラシを洗った。

顔に触れるものだから頻繁に洗ってはいるけれど、大晦日に洗っていると普段のルーティーンとは違う心持ちだった。メイクブラシを立てているペン立てまで丸洗いした。石鹸とお湯でくるくるとブラシを洗いながら、毛先がチクチクとしてきたブラシの数本について、そろそろ捨て時だろうか、と考えた。それは無印良品のパウダーブラシ二本で、それぞれ先端にはわたしが油性ペンで書いた「P」と「C」という文字がある。パウダー用と、チーク用というしるしだ。

 その二本のメイクブラシは、考えてみれば思い出深いものだった。

はじめて買ったメイクブラシだった。都内の無印良品で買ったのを覚えている。パウダーを筆先にとって肌にあてたとき、その柔らかさとふわふわとした感触に驚いたものだった。たった一泊の旅にもそのブラシを持って行った。姉には「メイクさんみたい」と笑い交じりに言われたものだった。

 メイクブラシを買うまでは、ファンデーションは付属のパフで、アイシャドウは付属のチップで、チークは付属の小さなブラシで塗っていた。化粧をひととおり完成させるのに、別売りで値の張るブラシを買う必要はない。それでも二十歳そこそこのわたしがそれを買ったのは、「少しでも可愛く思われたい」という、外見への執着からだった。重要なのは「可愛くなりたい」ではなくて、「可愛く思われたい」。

 幼い頃、私は自分のことを「可愛い」と思っていた。根拠のない自信で、自分の顔を客観的に評価したことはなかった。両親も私をかわいい、と言ってくれたし、小さい頃は末っ子だったせいもあって、姉二人も私をかわいい子のように扱ってくれた。それが段々と変わったのは、もう少し成長してからの、本当に悪気のない姉の一言だった。私の顔をまじまじと見て、私の顔の欠点、を指摘した。それから、段々と、ゆっくりと蝕むように、鏡を見る時間が長くなった。その頃肌がひどく荒れだして、ますます私は自分の外見への自信を失っていった。他人がわたしの外見をどう思うかを気にするようになった。

 校則の厳しい高校を卒業し、大学に入学すると、私服での登校になり、化粧も毎日することになった。自分を少しでもよく見せるために、ファッションに興味を持ち、少しでもコンプレックスを解消するために、化粧に長い時間をかけるようになった。当時の写真を見ると、今のわたしからすると化粧も拙く、服もちぐはぐで到底お洒落とは言えないが、それでもその時必死に毎日足掻いていたのは、今でも覚えている。

 メイクブラシを初めて買ったのも、誰かが、チークは付属の小さいブラシより、大きいブラシで塗った方がいい、と言っていたからだ。たしかに、大きいブラシで塗った方が、ふんわりと頬が色づき、濃さの調整もしやすかった。ファンデーションやパウダーも、ブラシで塗った方が余計な粉が肌に付かず、綺麗に仕上がった。次はアイシャドウブラシを買った。その次はシェーディングブラシ。その次は……。無印良品で買った初めてのメイクブラシは、「かわいくなりたい」という前向きな思いから買ったものではなかった。当時の私にとって「かわいくなりたい」という思いは、自分の外見への並々ならぬ、不健康な執着の代表的なものだった。

 辛かった。小学校から高校まで女子校で育ったわたしは、大学に入ると特に男性の視線が気になった。男友達が数人できたが、彼らに恋愛的な好意を抱いていたわけではなかった。(彼らは素晴らしい男性たちだったが、私の恋愛の回路が切れていただけ。)それでも可愛く思われたい、と思っていた。多分、女性は男性に可愛く思われていなければ価値がないと考えていた。どこから仕入れたか分からないその不健康な価値観のせいで、大学時代はずっと辛かった。当たり前だ。だってわたしより可愛くて、わたしよりきれいで、わたしよりお洒落な人間なんてあまりに沢山いたからだ。私の素晴らしい友人たち。彼女たちを見ては、落ち込んだ。

 今はすこし違う。かわいく思われたい、という欲求はほとんどない。服が好きなのも化粧が好きなのも昔と変わらないけれど、それは他人に可愛く思われたい、という欲求からではなくて、わたしがわたしを良く思っていたい、という欲求から。年齢を重ねるにつれて、苦手だった他人と自分の線引きができるようになり、他人と精神的な距離を置くことができるようになった。他人が自分をどう思うかよりも、わたしがわたしをどう思うかを考えられるようになった。

 無印良品のメイクブラシは、より若い自分の苦々しい思い出だった。健やかでいられなかったわたしを恥に思うよりも、痛々しくもいじらしく思える。きっとああいうときを過ごしたからこそ、わたしは誰かの痛みにも敏感になれるはずだ。あの歪んだ価値観と欲求に支配されて過ごした日々は、きっとわたしの人生に必要だった。

年明け、二十七歳。

 年が明けた。祖父母の祖国の数え方に則れば、わたしは二七歳になった。アラサーと言われる三〇歳に近い歳になった。先に誕生日を迎えた友人たちに「そろそろアラサーの仲間入りだね」と言われるが、わたしは三〇という数字には特に意味を感じない。しいて年齢に触れるとすれば、きっとわたしは歳を重ねれば重ねるほど、より素晴らしい人間になるだろうと感じている。年齢に「焦り」の意味を持たせる風潮は根強い。出産には身体的なタイムリミットがあるから、きっとその風潮はいつまでも完全になくなることはないだろう。きっと私が年を取ることに「焦り」を感じないのは、結婚したいとも、子を持ちたいとも思わないからだ。

 二〇二二年を、これまでの人生で一番前向きに迎えられた気がした。過去の年越しなんていちいち覚えていないから、確信はない。だから「気がした」だ。

 わたしの状況は良いとは言えない。三月には日本式の数え方で二十六歳になるが、職歴はない。大学院を卒業して、国家試験を受けたが現在は浪人中だ。二人の姉は結婚して家を出ていき、父と母と三人で暮らしている。去年は祖父を二人亡くし、年末には犬を亡くした。自分に失望することは多い。きっとストレスが多くなる一年になると予感している。それでも、一月一日の日記の最後に書いたのは「これまでで一番充実していると思える一年にする」。そんなこと、これまで考えたことすらなかった。

 その理由は、ひとによってはほんの些細な疾患である。

 「ニキビ」だ。またの名を尋常性挫創という。私は後者の方が大げさに聞こえて好きだ。「ニキビ」。大嫌いな言葉。このカタカナの三文字を見るだけで、憂鬱になる。それがニキビ。大げさではなく、私の人生とは切り離せない三文字だった。

 はじめてニキビができた時期は覚えていない。きっと多くのひとと同じく、思春期の頃。おそらく中学時代だと思う。多くのひとのニキビは、加齢と共に減っていく。そして不摂生や、不規則な生活習慣、合わないスキンケアを施したときだけに発生する「イレギュラー」なものに変わっていくはずだ。私にとってのニキビは、残念ながら「イレギュラー」にはならなかった。残念なことに。

 十年間、私の肌には常にニキビがいた。そして、ゆっくりゆっくり、時間をかけて悪化していって、昔は小さく赤みを帯びる程度だったそれは、成人する頃には大きく膿みをもつようなものに変わり、そして治る過程で赤黒い跡を残すようになった。当然皮膚科に通った。塗り薬、漢方、ニキビ用のスキンケア。あらゆる保険診療の治療を試した。効果を感じたものもあったが、残念ながらニキビがまったくなくなることはなかった。ニキビが原因になると思われるものもすべて避けた。小麦製品、タオルで顔を拭くこと、シャワーを直接顔に当てること、洗顔料で顔をこすること……。色々な情報を仕入れて、試して、お金をかけて、がっかりした。その過程で学んだのは、あらゆる手立てを試しても治らないものがあるということと、この世にはひとのコンプレックスにつけこむ広告があまりに多いということだった。

 私の思考のほとんどは、肌のことにとらわれていた。治らない病がどれだけひとの心を蝕むか、他人に分かってもらえるだろうか。なにをそんな、吹き出物程度でと思われるだろうか。一日中ベッドで泣いたことは数えきれないくらいある。大泣きしながら終わらせなければならない課題を片付けたこともあった。なにもかも、肌が汚いなら終わりだと思っていた。家にいるときは、数分に一度は手鏡を見ていた。何度も見たって肌は変らないのに、今の状態を確認したくなるのはなぜだろうか。少しでもマシに見える角度を探していたのだろうか。夜、窓を開けるのが好きだったけれど、鍵を締めるようになった。ある選択を本気で想像したのは二十四歳のときで、自分が恐ろしくなった。

それでも尋常性挫創という病気は、多くのひとが「自己責任」だと思っているのだ。「不摂生だろう」「カップ麺ばかり食べてるんじゃないか」「皮膚科に行かないからだ」「運動してる?」「汚いよ」。地獄に落ちる基準は「五戒」といって五つあるが、私が閻魔さまならここに、「他人の肌に対する無神経な言及」を加えて「六戒」にする。たとえ親切心からのアドバイスでも。無理解の癖に、知ろうともしない人間……。冗談だ。そうなっては、私の家族も地獄に落ちてしまう。

 服やメイクが好きだった。他人におしゃれだね、と言ってもらえると、少しは前向きになれた。美しい人になりたい、綺麗な人になりたい、他人によく思ってもらいたい。でも、肌が汚いなら、意味がないと思っていた。色の白いは七難隠す、という言葉がある。肌さえ綺麗になれば、と思っていた。思わない日はなかった。一時間だって、肌のことを考えない時があっただろうか。

 年を越すとき、考える。来年はどういう一年にしようか。どういう一年になるだろうか。そのためになにをしようか。二〇二一年を迎えたときは覚えている。匿名のSNSに書いていたからだ。「今年こそはニキビゼロ。ファンデ無しで外に出られるようになる」。そして計画を立てる。そのための毎日の習慣を決める。漢方を必ず三回飲む。トマトジュースを毎日飲む。寝具は二日に一回洗う。毎日早寝早起きをする。まあ、毎年こんな感じだ。いつもいつも。

二〇二二年の年明けは違う心持ちだった。今年の目標に、肌に関することはひとつもない。去年定めた習慣は続けるが、「今年の」目標ではない。その理由は簡単なことで、自由診療で飲み始めた薬でニキビがほとんど治ったからだ。治療を始めるのにかなりの迷いはあったし、日本では未承認の薬で、母親には反対された。それでも結局、始めることにした。懐はかなり痛い上に副作用は楽ではないが、十年以上、私の肌に居座っていたニキビたちは、ほとんど消えた。瘢痕は残るが、仕方がない。これから時間をかけて直していく。ニキビに悩んでいた時間は、今は副作用に対処する時間になったが、それでもずっと良い。

 私の多くの時間と金を費やしてきたカタカナ三文字の、多くのひとにとってはなんてことない病がいかに私の心を蝕んでいたか。治らないなら生きている意味すらないと思っていた。

 薬は期間が定められているし、やめれば再発する可能性もある。それでも、久しぶりに、ニキビ以外のことを考えている。この一年を最高の一年にするために、人生を充実したものにするために、なにをしようか。自分がどういう人間になりたいのかを、真剣に考えられたのははじめてだった。

話し足りなかった日

イ・ランの「話し足りなかった日」を読んだ。韓国のアーティストのエッセイ集で、帯には「忘れないために。ソウルの部屋より」と書いてある。2021年末にこの本を読んで、私も忘れないために文字に残したくなった。一年前の自分と今の自分は別人だと感じているから、今思っていることや、感じたことや、考えたことを、文章にして残したいと思った。2022年のひそかな目標は、頻度は定めず、残しておきたい考えを、忘れないために文章にまとめること。